2012年4月20日金曜日

日本の図書館史研究の「いま」がわかる論文

またまた事務局2号です。連投すみません。

明治大学の三浦太郎先生のご論文「日本図書館史研究の特質 ―最近10年間の文献整理とその検討を通じて―」『明治大学図書館情報学研究会紀要』N0.3(2012)が発行され、明治大学の機関リポジトリで閲覧可能になっています。


近年の日本の図書館史研究に顕著な特色として、
  1. 図書館史研究を方法論的に問い直す試み
  2. 戦後日本の図書館に対する歴史的評価
  3. 人物への注目
の3点が指摘され、それぞれの観点から文献が紹介されています。

また、

「米国など海外における研究手法に学び、プリント・カルチャーや読書史をはじめとする周辺領域の視座、研究成果を横断的に活用することは、今後ますます、日本図書館史の研究においても重要視されるようになると思われる」と指摘されています。

三浦先生にはすでに2008年の時点で、『カレント・アウェアネス』に「図書館史」の文献レビューを発表されていますが、今回のご論文では、その後刊行・発表された研究成果を踏まえて、現時点での図書館史の研究文献がわかります。

戦前期「外地」で活躍した図書館員の研究報告書

事務局2号です。
 京都ノートルダム女子大学の岡村敬二先生による科学研究費補助金研究成果報告書「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」(研究課題番号:21500241)が刊行されました。2号宛に一冊いただきましたので、感謝を込めて目次をご紹介します。
 論文はもちろんのこと、とにもかくにも、巻末の人名リストが圧巻です。

 本研究の研究概要はこちらに掲載されています。
 またすでにこちらなどで、「快挙!」の声も聞かれています

はじめに―研究の目的と研究経費

Ⅰ.研究成果の概要

Ⅱ.研究成果

 論文
  1.  “戦前”で終わっていた父橋本八五郎の人生(橋本健午)
  2.  佐竹義継の事跡(佐竹朋子)
  3.  尾道市立図書館の高橋勝次郎(よねい・かついちろう)
  4.  満鉄図書館時代の大佐三四五(鞆谷純一)
 資料紹介・訪書記
  1.  衛藤利夫「本を盗まれた話」再録にあたって(岡村敬二)
  2.  「本を盗まれた話」再録(衛藤利夫)
  3.  秋田県立図書館訪書(岡村敬二)
  4.  内藤湖南生誕の地毛馬内を訪ねて 付載 大阪府立図書館展覧会の歴史 図書館ものがたり その1(岡村敬二)
  5.  岩手県立図書館訪書記(岡村敬二)
 人名リスト
  •   戦前期「外地」活動の図書館員リスト(岡村敬二)

2012年4月17日火曜日

第12回勉強会(2012年4月15日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(7)
中里龍瑛「東大図書館の復興に尽力:植松安」

日時:2012年4月15日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:服部智
出席者:10名

今回はテキストから、東京帝国大学附属図書館の司書官だった植松安を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.植松安の略歴

・1885(明治18)年生、1908(明治41)年に東京帝大卒。同年は東京帝大の大学官制が改正され、初めて司書官職が図書館に置かれた年でもある。
・1914(大正3)年に東京帝大文科大学で助教授兼司書官となる。1920(大正9)年に日本図書館協会副会長に就任、この時の会長は今澤慈海。
・1921(大正10)年より一年間の海外出張。各地の図書館を視察し『図書館雑誌』に寄稿。
・1923(大正12年)9月の関東大震災にて東大図書館は壊滅的な被害を受け、植松は姉崎館長の元で復興に尽力。また南葵文庫の東大図書館寄贈に関わる。
・1929(昭和4)年に台北帝大文政学部講師として赴任、翌年教授となり、国語学・国文学を担当。
・1946(昭和21)年、台北から日本へ引き揚げる船中にて死去。

1.東京帝大時代の植松
・東京帝国大学図書館の人々が主体となった書物同好会に関わる。1925(大正14)年に『書誌』を発刊。なおこの雑誌は途中で出版社が変わっているが、編集方針等を巡りトラブルがあったため。
・上代の国文学者として、神宮文庫本古事記裏書の解説をしたりしていた。また東大図書館に寄贈された本居文庫に関心が高かった。背景として、植松の曽祖父が本居宣長の門弟であったという先祖の縁も考えられる。
・植松、山田珠樹、田中敬らが帝大の目録規則の基礎を作成。東京帝大図書館では和漢書の基本カードを事務用にしていた。これは植松の考えによるといわれる。植松が去った後、山田司書官が書名カードを著者名カードに書き換えたため、書名からの利用ができなくなり不便な状態となった。現在も東大の総合図書館参考室にあるカードは著者名カードのみ。同館には現在も、和田万吉や植松が関わった目録の名残が随所に見られる。

【質疑・コメント】
  • 植松の一年間の海外出張は、東京帝大図書館としての業務だったのか。→【発表者】不明。帰国した時の歓迎会を日本図書館協会で開催しているので、そちらの業務だったのかも知れないが、団体の仕事で一年も外遊できるものか。

2.ローマ字普及活動
・植松はローマ字普及推進者であった。全編ローマ字で書かれた著書などがNDLに所蔵されている。漢字の方が目録カード作成の際の労力が大きい、検索しにくい、意味を理解しにくいといった理由。「普通の図書館(public library)ではいかなる知識階級の人も相手にしなければならないのですから、これに対してはどうしても出来るだけ簡単な文字、紛れやすくない音順というものを用いねばならぬ」との言あり。1936(昭和11)年には賀茂真淵の墓前に『ローマ字万葉集』を供えた。


3.和田万吉との関係

・日本図書館協会の仕事を共にするなど、当時東京帝大図書館長であった和田にとって腹心の部下と言える。ただし和田の方は今澤慈海宛の書簡で植松を「狡獪」と評し、不信感を持っていた節もある。
・1923(大正12)年の関東大震災で、和田は被災の責任をとって図書館長を退職。この頃の今澤慈海宛書簡で、和田は植松が震災前後の混乱に乗じて自分を放逐したという趣旨をほのめかせ、怒りを露わにしている。

【質疑・コメント等】
  • テキストに載る植松のエピソードからは豪快な人柄が伺え、几帳面な和田万吉とは合わなかったのではないか。
  • 東京帝大図書館長交代の経緯。震災の時植松は現場におり、資料の救出などに尽力したと自ら書き記している。いっぽう和田はその場にいなかったことで責任を問われることになった。代わって館長となった姉崎正治は図書館商議会の筆頭であり、国際的知名度もあった。震災を受けての外国からの支援申し出に対応する意味でも姉崎が相応しかったと思われる。
  • 姉崎館長のもとで植松がどのような仕事をしたかは資料がなく、良く分からない。
  • 今澤と和田のやりとりした書簡は何故残ったのか?→今澤死去の後、未亡人から都立中央図書館に預けられたもの。日本図書館協会百年史を作る時に集められた資料の一部でもある。
  • このあたりの経緯は薄久代『色のない地球儀』(同時代社、1987)に詳しい。薄さんが東大の文書を整理して戦前の東大図書館について書いたもの。これらの文書は「東大図書館史資料目録」に掲載。東大百年史の図書館の項目執筆にも関わっていたはず。
  • 南葵文庫寄贈の時点では、徳川頼倫(日本図書館協会総裁)と和田と植松の関係は悪くなかったということか。→【発表者】徳川との関係については分からない。
  • 和田万吉は有力者なので、関係が悪化してから一年ぐらいの間は植松を日本図書館協会の中枢から外そうとしていた形跡がある。しかし和田以外の周囲はさほど悪感情もなく、業界全体において植松が孤立していた訳ではないかもしれない。
  • なお震災後、日本図書館協会の主導権が一時関西に移っている。大阪府立図書館長の今井貫一が理事になり、図書館雑誌の編集を間宮不二雄が行っていた。

4.台湾時代の植松安

・昭和4年に台湾に渡るまでの間の植松の活動は不明。休職したりしている。
・台湾での植松は国立台湾大学中央図書館で「蜻蛉日記」の新写本を発見、蜻蛉日記の注釈を行っていたが、中断した。上代国文学者である植松がなぜ「蜻蛉日記」に興味をもったのかは不明。中断した理由は、植松と同じ手法で喜多義勇が多大な成果を上げていたことから、敵わないと思ったのかもしれない。
・上記のような国文学関係の仕事と並行して、「忠君愛国」者としての著述活動を行う。特に昭和10年代からは思想的活動の方が目立つ。
・1933(昭和8)年、台湾日日新報社長河村徹と植松とのラジオ放送を機に台湾愛書会が発足。「書誌学を中心としての諸種の研究、並に大衆教化」を目的に、展覧会や講演会などを開催していた。会誌『愛書』は国立国会図書館のデジタル化資料にも入っている。

【質疑・コメント等】
  • 参考文献に挙げられた国文学関係の植松の著作を見るとあまり統一感がなく、興味の赴くまま色々なことを研究していたのではないか。
  • 植松のローマ字推進と、忠君愛国主義には接点があったのか。→【発表者】日本語を世界に広めたいという姿勢は感じられる。1916の雑誌記事『図書館とローマ字』でもそのような記述がある。ただし森有礼の英語国語化については批判しており、言葉そのものを置き換えようという考えとは一線を画している。
  • 戦前の図書館関係者にはローマ字推進を唱えた人物が多かった。代表的なのは間宮不二雄。この人物が関西の若手図書館職員を集めて作った青年図書館員連盟は、当時、日本図書館協会への対抗意識があったといわれる。日本図書館協会に属していた植松が、ローマ字推進を通じて間宮につながっていたとすると面白い。
  • 植松が忠君愛国主義に傾いていった時期である昭和10年は、美濃部達吉の天皇機関説事件があり、岡田内閣が国会で国体明徴声明を出した。思想史上大きなターニングポイントとなった年。これ以後、特に公職にある人の言論には大きな影響が出てくるので、植松個人の問題かどうかは慎重な評価が必要。
  • 当時の台北大学図書館の蔵書構成はどのようなものだったのか。現在日本では散逸してしまい、台湾でだけ残されているといった資料はないか。また、総督府との蔵書の違いは。→【会場】日本書紀の古い本や、蜻蛉日記等が発見されている。九州大学の中野三敏と松原孝俊が科研費での調査を行っている。中野の著書『和本のすすめ』でも言及があった。
  • <参考:cinii図書 - 台湾大学所蔵日本古典籍調査
  • <参考:台湾大学所蔵和本善本目録の刊行について
  • <参考:台湾大学図書館所蔵の日本研究文献から見た日本殖民史
  • 台北大学では学位授与などはされたのか。→【発表者】不明。ただ、台湾の人が日本文化について書いたものに植松は序文を寄せたりしている。

5.植松安の最期
【質疑・コメント等】
  • 植松は米軍のLST(戦車揚陸艦)で引揚げる途中の船内で息を引きとった。LSTは構造上、衝撃が強いので、病身の植松には過酷だっただろう。
  • 植松の亡くなったのは1946年3月23日であり、終戦後半年くらいは生きていた。その間の著述で、思想の転向などは見られるか。→【発表者】探した範囲では1940年以降の著述はない。


終了後は懇親会が開かれた。