2013年11月22日金曜日

第2回東西合同合宿(2013年11月2日~3日)報告

日時:2013年11月2日(土)~3日(日)
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都府京都市)
出席者:22名(東京8名、関西14名、※一日のみ参加も含む)


昨年に続き、東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的とし、京都を会場として第二回目の合宿を開催した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する報告が行われた。


●「滋賀県における文化行政と図書館整備」(中込栞氏)


 1970~80年代の滋賀県の文化行政と図書館振興政策の関わりについての報告。報告者の卒業論文を元にした内容である。

 滋賀県の図書館振興政策について論じた先行研究は、滋賀県を見習う「べき」、という振興策ありきの論調であり、そもそも振興策がなぜ作られたのか、という点への問いかけが少なかった。そこで行政全体に関わる広義の「文化行政」に焦点を当てることで、教育委員会所管の事業にとどまらず、行政全般と図書館振興策との関連を検討した。

 1974年12月から1986年にかけて、滋賀県知事を務めたのが武村正義氏である。武村知事は琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例等に代表される「草の根県政」を標榜。文化行政の面では、「県政に文化の屋根をかける」をスローガンとして、県教育委員会に文化部を設置。その中の文化振興課が中心となって、1979年から「文化の屋根事業」が始まる。武村氏が知事に就任する以前の1970年ころから県立図書館の新館建設要望は出ていたが、1979年に新館建設起工。工事と並行して文化振興課による館長探しが行われ、日野市立図書館長などの経験を持つ前川恒雄氏に依頼し、図書館運営を任せた。(1)貸出中心(2)県立図書館による市町村立図書館のバックアップ(3)専門職重視、という理念に基づく運営で、滋賀県の図書館は大きく前進した。

 1980年に、①住民の図書館欲求の育成、②市町村立図書館整備策の二つを柱とする『図書館振興に関する提言』がまとめられた。これらのうち、①は「草の根図書館」として、②は資料費補助を伴った図書館整備補助として実現する。この『図書館振興に関する提言』は単なる図書館整のための提言ではなく、知事の目指す草の根県政の実現の手段としての図書館像を描いている。またその後整備状況によって、効果的に改訂が加えられていった。
 
 武村知事にとって、図書館振興は「草の根県政」実現のための手段であり、図書館の振興は政策的に有効と判断されるものであった。時代的背景や、行政・現場双方からの図書館に期待する役割像が一致していたなど、図書館の世界だけに留まらない行政全体としての様々な要因が加わった結果、滋賀県の振興策は成功したのだと考えられる。

◆質疑
  • 滋賀県立図書館長時代の前川氏にインタビューを行ったことがある。行政担当者としての手腕や、先進的にコンピュータを導入したことなど、図書館経営者としてマネジメント能力のある人だという印象をもった。
  • 新館建設前の県立図書館を使ったことがある。武村県政と西武グループの滋賀県への進出とが歩を合わせている様に見受けられる。  →その通り。プリンスホテルの進出、西武百貨店の誘致etc...
  • 県立図書館論について調べたことがあるが、武村知事、前川氏による滋賀県の図書館振興への意向・意志を詳しく書き残したものはほとんどない。何故か。かなり後の岸本岳文氏による記述しかまとまったものがないのが不思議。
  • 滋賀は元々、近江商人の地として、近世から書籍や情報にあふれていた印象がある。その意味で、図書館という輸入された近代的装置がそれほど求められなかったのではないか。現在の「文化行政」論の場合、方法として行政側のみの視点におうおうにしてなりがち。地域側からの視点や特性をどう入れるかが今後の議論の発展に重要になる。また、「革新官僚」としての武村知事の在り方も検討を要するのではないか。


●「竹林文庫史料から見る田中稲城」(長尾宗典氏)


 報告者による田中稲城(1856~1925)に関する研究の中間報告。初代帝国図書館長である田中については、戦前期の竹林熊彦による伝記的研究があるが、戦後はあまり研究がなされていない。同志社大学所蔵竹林文庫に含まれる田中稲城の文書は、デジタル化され提供されているが、田中の伝記的研究の欠を補うに足る一次史料であり、丁寧に見ていくことでさらなる知見が得られると期待される。
報告者は竹林文庫史料の履歴書などを使い、田中の年表作成を試みた。また、竹林が使用しているによる田中稲城文書の年代比定にも疑問点がある。この他にも田中宛の書簡から浮かび上がってくる人間関係には意外なつながりもある。

 現在までのところ、竹林の伝記も含め、田中への論級は明治の中ごろ。米国に留学してから帰朝して帝国図書館設立に至るまでの時期に集中しており、明治末期から大正にかけての田中の事績は不明な点が多い。ただし、『図書館雑誌』創刊や図書館員講習、小松原訓令の起草など図書館史上重要な事柄にも関与しており、決して重要でないわけではない。これらをどのような文脈に位置付けられるかは今後の課題である。

◆質疑
  • 竹林が「土」に連載した文章中に、田中稲城関係史料が竹林に寄託される経緯の記述がある。これ以前の竹林による田中稲城論は、竹林が個人的に収集した史料によるものか。しかし、私的な書簡がそんなに流通するものか疑問。 →竹林の田中研究はきわめて重要だが、ほとんど彼だけが研究しているので、使っている史料の面からも、批判的に吟味していく必要があると考える。
  • 田中の名の読みは「イナギ/キ」か「イネギ/キ」か。サミュエル・グリーンなど、海外の人物からの書簡が残っているようなので、手掛かりになるのでは。
  • 田中稲城を研究する意義とは。帝国図書館史研究にどうつなげるか。人物から組織を研究する際の問題点・課題を整理する必要がある。また、人物研究でもその人物の個人的資質だけでなく、組織運営能力その他の検証が必要。


●「「長田富作資料」について」(門上光夫氏)

 十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する資料について紹介された。なお、この資料については第17回関西文脈の会勉強会(2012年12月)で報告いただいており、今回はそれ以降の資料整理の成果も踏まえた報告となった(長田の経歴等については、リンク先等を参照)。文書については一通り整理が完了し、前回報告時に未整理だった書簡については今年から整理が進められている。

 資料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものからなり、全480点存在している。最近発行されたばかりの『大阪府立図書館紀要』第42号(2013年10月発行)に、目録を掲載してある。

 報告では資料群のなかから、青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
門上氏からは、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

◆質疑
  • レジュメの内容紹介にある「注意」とはどんな史料か。 →提供時注意すべき資料(左派系と目されていた資料)。逆にいえばそういった資料も所蔵していた、ということ。
  • 書簡は大体何点くらいか? → 150~200点
  • 大阪文化施設協会の会則について、「文化施設」は文部省の課の名前でもある。戦時中、社会教育的な分野で施策を行う場合、「文化」の名の下に行っている。図書館史だけでなく、博物館史や戦時文化運動の史料ともなろう。
  • 中央図書館長協会についての研究でも文化施設協会の在り方は関連するのではないか。
  • 「文化」「科学」という語が広く喧伝され始めるのは1940年代から。敗戦後、唱えられたかのように思われがちだが、戦中期からのもの。これが戦後初期のスローガンのひとつ「文化国家」にスライドしてくる。この視点から捉え直す必要がある。

●「田中一貞と慶應義塾図書館」(田村俊作氏)

 慶應義塾図書館の初代監督を務めた田中一貞(たなか・かずさだ(「いってい」と読む史料もある)1872~1921)について、『慶應義塾図書館史』などを元に、経歴をたどりつつ、彼の人となりや図書館観などについて紹介がなされた。

 田中は山形県、鶴岡の出身。同郷の縁もあって若き高山樗牛とも親交を持った。慶應義塾を卒業後、アメリカ、フランスに留学し、社会学を修めた。明治37年(1904)帰国後は、慶應義塾において社会学と仏語を講じた。翌年、書館が「図書館」と改められると初代「監督」を兼任し、目録カード編成や図書館規則の制定に尽力した。長く塾長を務め、福沢没後の義塾の発展に尽くした鎌田栄吉の信任が厚く、半年以上に及ぶ欧米巡遊にもともに出かけている。

 田中の人となりについては、「開放主義」と呼ばれる人柄で、来客は夫人とともに迎え入れるような人が集まるタイプの人だったらしい。また、留学中、フランスで洋画家グループと交流を持ったこともあり、大の美術品収集家であった。病弱な一面もあったという。福沢諭吉のことをたいへんに尊敬し、「赤誠熱愛のハート」を持った教育者であったと回想している。

 図書館については、開架の提唱や塾外者の利用を認めるなど、利用者の便宜を重視する運営をした。図書館建築に一家言を持っていた人で、図書館は“防火性”“効率性”“拡張性”が重要だと述べているが、こうした田中の考えに基づいて作られた慶應義塾図書館旧館は、空襲に耐え、二度の拡張により70年に渡って本館として使われた(また田中は美観も重視し、例えば、慶應義塾図書館内のステンドグラスは、田中の発案によるものである)。大学図書館長として早稲田の市島春城とはかなり違った個性だが、ユニークな図書館人として評価できる。

◆質疑
  • 田中が「図書館の専門家」でなく「素人」というのは、和田万吉らがしきりに言っていた専門性論と関係がある?田中は社会学者の顔も持っており、そこに一種の誇りも持っていたのでは。
  • 田中という人の業績は、普通に評価すると図書館建築に一家言あった人という程度に見えてしまうが。 →図書館人の歴史的評価が何によってなされるべきかという重要な指摘。今までは書いたものの図書館観が立派なら、それで評価されていたかもしれないが、図書館経営の評価はそれでははかれない。言説だけでなく、運営実態や、機能する施設といった実務業績も見るべき。

このほか、柳与志夫氏から「短報」として、大阪府立中之島図書館の歴史を振り返りつつ、橋下市政下における同図書館の改革に関する検討動向について簡単な話題提供があった。


また、終了後はオプショナル・ツアーとして、同志社大学図書館および本会メンバーである春山明哲氏のご厚意により、同図書館竹林文庫の見学会を開催した。