2014年12月19日金曜日

第25回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第25回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2015年1月18日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:小篠景子氏
タイトル:「伏見文庫と伏見図書館(仮)」

また、会終了後は、新年会を兼ねた懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年10月9日木曜日

第24回勉強会(2014年9月21日)報告

第24回勉強会(2014年9月21日)報告
「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
日時:2014年9月21日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

0.国民精神総動員文庫(以下、精動文庫)とは
・昭和13~15(1938-1940)年ごろ、日米開戦以前に道府県中央図書館や道府県立図書館の主導により行われた。日本精神、中国事情、農業など国策に寄与する資料を重点的に集めたもの。規模や形態は各地により異なる。もっと後の時期になると読書会等を中心とした思想統制が厳しくなっていくが、今回はその前の時期。
・先行研究として、小川剛氏、奥泉和久氏らの論文を参照した。

1.国民精神総動員文庫設置の経緯
・昭和12(1937)年7月に日中戦争開始。同年に国民精神総動員運動が開始される。この時点での図書館の動きは、本の特集を組む程度。
・昭和13(1938)年4月に国家総動員法公布。同年5月の中央図書館長会議で、文部省が巡回文庫のための資金提供を行う準備があると表明。戦争の長期化が見込まれたとが背景にあると思われる。
・同年9月には、購入資金350円と買うべき本の目録が各中央図書館に交付される。この金額は本でいうとだいたい200冊程度と思われ、小規模。

2.京都と大阪における活動の違い
・京都府中央図書館には、以前から貸出文庫が存在した。創設は明治36(1903)年、一回50冊で、府内の図書館、学校教育会、青年団や婦人会などの各種団体を対象。閲覧料は1冊1銭。これが精動文庫の運営モデルになったと考えられる。
・京都府中央図書館に設置された精動文庫は162タイトル。男女青年団の幹部や教職員など、青少年の指導者が対象。貸出文庫と併用も可能で、リクエスト制度や読後の感想文共有なども想定されていた。ただし当時府内の青年学校は400以上あり、数としてはとても足りなかったと思われる。
・一方、大阪府立中央図書館における精動文庫の状況。こちらは郡部町村が中心で、大阪市内は大阪市立図書館がサービスを実施していた。200冊を1単位として4単位、800冊を設置。精動文庫に一般読物を加えた数百冊を、対象地域に巡回させていた。
・京都府と大阪府の計画を比較すると、大阪府の方がより大規模で現実的。

3.京都府における「改良」
・昭和14(1939)年8月に文科省から、精動文庫への奨励金が出された。あわせて、タイトル数や冊数を増やし、広く巡回させるようにという指示も出された。選書の基として文部省編纂の『国民精神総動員巡回文庫目録』が配布される。
・これに基づき、京都府中央図書館では従来の精動文庫を改良。奨励金500円に地方費100円を加えた600円で、243タイトルを購入した。
・文部省の推薦目録と、改良後の京都府中央図書館精動文庫の目録とを比較。改良により、農業、工業、水産などのジャンルが増えている。食糧増産計画の影響とも思われる。項目が細分化され、地域の事情に合わせやすくなっている。
・内容のレベルによって2種類に分け、難解なものは巡回文庫、通俗卑近なものは貸出文庫に配合した。
・実際の利用はどうだったか。『京都府中央図書館報』では昭和15(1940)年6月に、府庁内軍人援護会に図書を貸し出している。文部省には既に巡回文庫に移行する旨の報告をしており、矛盾するとも見える。

4.精動文庫の行き詰まり
・昭和15(1940)年以降、図書館雑誌や京都府中央図書館報で精動文庫の話題が乗らなくなっていく。国民精神総動員運動自体が大政翼賛体制に組み込まれたためか。
・昭和14(1939)年刊行『図書時報』第1輯収録の伊藤治郎「岡山縣下圖書館視察記」では、岡山県の視察先で精動文庫を見て「恒久的なものにしたい」と述べている。もともと常設される想定のものではなかったのかもしれない。
・また同年の北信5県図書館大会における報告では、指定図書が難しすぎるため読書指導が必要であること、情報の陳腐化などの指摘がなされた。

5.まとめ
・国民精神総動員運動に乗じた図書館振興策として実施された。規模はそれほど大きくない。文部省からの推薦目録だけでなく各館で独自に選書された部分もあり、司書はただ指示に従った訳ではなく主体的に取り組んでいた。ただし実際の利用はそれほど盛んでなかったと思われる。
・図書館にとっての精動文庫の意義は、国家からの支援を勝ち得たこと、図書館が外に向けて出ていく機会となったこと、選書による職員のスキルアップなどが考えられるか。

6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・リクエスト制度も存在するなど、戦時中に思想統制のため作られた文庫というイメージよりも意外と柔軟だと感じた。
・つぎ込まれた350円という金額は少ないのでは。→規模としては大きくないが、それが全国的に行われたことに意味。
・当時の文部省大臣は荒木貞夫、帝国図書館長は松本喜一、京都府知事は鈴木敬一と赤松小寅。また当時の京都府中央図書館長は北畠貞顯。こうした人々の、個人的な傾向が政策に影響を及ぼしていた可能性も考えられる。
・発表者は350円を小規模としていたが、当時の受入冊数や予算規模の全体と比較するとどうか。→当時、京都府中央図書館の一般の貸出文庫は26000冊ほど。
・文部省編纂の目録を見ると、意外と特定の出版社に偏るようなことがなく、幅広い。一方で、吉川弘文館や法蔵館のような伝統的な出版社が入っていないこともある。
・昭和15年の京都府国民精神総動員文庫目録に含まれる『緋の蜘蛛』という本は現所蔵館が確認できなかったとのことだが、「日本の古本屋」ではヒットあり。15000円くらい。

終了後、懇親会が行われた。

2014年8月12日火曜日

【日程変更しました】第24回勉強会のお知らせ

台風のため中止となった第24回勉強会につき、
改めて下記の日程にて開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年9月21日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」

また、会終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

 【2014年9月14日追記】
第14回勉強会の懇親会は、
同日に開催されるLRGフォーラムの懇親会と合同開催いたします。詳細は下記URLをご覧ください。
https://docs.google.com/forms/d/1JJRWzI78PgnDpGvXQ2NlyTFSYRB7FojxjliseX4o6nY/viewform
(フォーラム自体へのお申込み・お問合せは、LRGフォーラム主催者の方へお願いいたします)

2014年8月8日金曜日

<重要>第24回勉強会中止します。


事務局よりお知らせします。
本日(8月9日)開催予定だった第24回勉強会は、台風接近のため中止といたします。


発表者及びご参加を予定されていた皆さまにはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解をお願いいたします。

当日のご連絡で恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2014年7月8日火曜日

第24回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第24回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年8月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 

発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」


また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年6月24日火曜日

第23回勉強会(2014年6月7日)報告

第23回勉強会(2014年6月7日)報告
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

0.はじめに

・伏見学校は、淡交社『京都大事典』によれば「徳川家康が伏見泰長老に設立した僧俗のための学校。慶長6(1601)年に、もと足利学校第9世校長閑室元佶(かんしつげんけつ)を招いて開校」等と説明されている。
・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。

1.伏見について

・伏見の郷土史を研究する立場から、このテーマに興味を持った。
・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。


2.円光寺と円光寺版(伏見版)について

・伏見に政権の中心があった頃に円光寺ができた。言わば政権のお膝元に作られた学術機関。
・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。


3.円光寺は学校だったか

・篭谷真智子「円光寺学校の研究」によると、「鹿苑日録」などの日記に登場する「学校」という呼称は、閑室元佶本人を指すことが多い。つまり元佶個人を指す「学校」という呼称が円光寺=近世の学校と理解され、誤った解釈がされたのではないか。一方で円光寺の日記を見ると、常設の教育機関というよりは色々な知識人が出入りするサロン的空間だったと考えられる。
(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。

4.新説と通説の関係

・脇にそれるが、京都は文化財が多いため空襲のターゲットから外された、という通説がある。吉田守男『京都に原爆を投下せよ』ではその通説を否定。きちんとした論考であり、妥当だと考える。しかしこの話を知人にした時には、フィクション小説と同列の仮説として受け止められた。
・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。


5.結び

・通説を覆すような研究者の論文が広く認知されていくことが望ましい。
・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。


質疑

・当時の大名の参勤交代の京都伏見間の交通手段は?→陸路。西日本の大名が参勤交代で江戸に向かう時にも大阪から船で伏見に着き、陸路、京を通らずに醍醐山科から大津へ抜けて東へ向かう。京都に足を踏み入れると朝廷へご機嫌伺いしなくてはならないし、ご機嫌伺いの仕方がまずければ朝廷に接近しすぎているように見えて幕府から睨まれる。
・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。

終了後、懇親会が行われた。

2014年5月14日水曜日

第23回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第23回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年6月7日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:若林正博氏
タイトル:伏見学校について

また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年4月5日土曜日

第22回勉強会(2014年3月29日)報告

第22回勉強会(2014年3月29日)報告
「公立図書館司書検定試験」
日時:2014年3月29日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
発表者:岡田大輔氏
参加者数:11名
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0.発表のきっかけと目的
・もともとの関心の方向は歴史というより、司書養成のカリキュラムや試験制度。
・国立国会図書館デジタルコレクションで、『全国小学校教員試験問題及解答 尋常科正教員教育科』という明治時代 の資料を見つけた。興味深いのは模範解答が載っている点。解答があることにより出題の意図や、どういう答えが求められているかが分かる。しかしこの中に図書館に関する問題は出てこない。
・では図書館員の採用試験はどうだったのか?ということで、戦前に存在した「公立図書館司書検定試験」 を取り上げた。

1.公立図書館司書検定試験の概要
・採用試験ではなく資格試験。文部大臣の命ずる検定試験委員が実施し、願書は文部省に提出する。
・昭和12(1937)年2月から毎年1回、おそらく7回実施された。
・合格のメリットは試験規程や要項に明記されていないが、奏任官(管理職のようなもの)待遇の司書になる一つの方法であった 。
・1941年の公共図書館員の待遇を見ると奏任官で年俸1343円、判任官で月給72円、書記で月給48円。奏任官の待遇が特別良いわけではないが、ステータスは高いと考えられる。
・試験手数料は5円。先の待遇から見ても5円はそれほど気軽な金額ではない。
・学歴などの受験資格は定めず、誰でも受けることができた。合格者には小学校卒の人も、いわゆる外地出身者も、女性もいた。
・昭和12(1937)年に行われた第1回試験の内容。筆記試験が2月22日~2月25日、出題科目は国民道徳要領、国語・漢文、国史、外国語、図書館管理法、図書目録法、図書分類法、社会教育概説。筆記試験合格者に対して実地試験が課された。出願が32名、合格が18名。
・穴埋めや選択式はなく、ほとんどすべて論述問題。試験時間2-3 時間に対して3-4問といった分量。
・国語や漢文は現在の大学受験レベル、歴史は範囲が広くやや難しい。国民道徳要領は教育勅語等を丸暗記すれば答えられそう。実地試験では「ある地方の小図書館があり、時局柄予算も人員も減っているが、戦捷記念の館であるため閉館もできない。あなたならどう経営するか」といった口頭質問など。

2.試験問題についての考察
・戦前の図書館については、中央図書館制度導入による中央集権化、思想善導、読書会や読書指導といったイメージで従来は語られてきた。
・実際の試験問題について、「戦中」度数、「思想善導」度数を自分の感覚で採点し、グラフにしてみた。7回の試験を通じて、「戦中」度数は特に変化していない。
・しかし、この度数の定義はあいまいで、感覚の域を出ない。
・実際に試験内容を見ると、思想的に極端な偏りはあまり感じない。特に図書館の専門科目については、現代の採用試験で出てきても違和感のないようなものも多い 。


3.受験体験記
・青年図書館員聯盟『図書館研究』に掲載された司書検定試験学習法の記事がある。タイトルは『司書検定試験受験ノ栞』。のちに単行本化された。
・著者は山下栄。1907年、愛媛県今治市の生まれ。18歳で図書館での勤務をスタート。その後文部省図書館講習所を卒業し、24歳で大阪帝国大学付属図書館に勤務。31歳で公立図書館司書検定試験に合格。34歳で阪大を退職、日本貿易振興会付設日本貿易研究所に勤務。戦後は神戸市立図書館、尼崎市立図書館などに勤務し、60歳の時に武庫川女子大学教授となる。72歳で没。
・なお山下が阪大を退職した理由は、上司であった田中敬との衝突が原因とされる。目録の取り方等で対立した結果、田中の自宅に押し掛けて、自分の書いた論文の抜き刷りに辞表を挟んで「ぶち投げた」というエピソードが残る。
・「受験ノ栞」によれば、専門科目の検定委員:図書館管理法は今澤慈海、松本喜一、中田邦造。図書館目録法は太田栄次郎、田中敬。図書館分類法は加藤宗厚、田中敬。社会教育概説は不破祐俊。
・合格者はほぼ図書館講習所の出身者。しかも現役がほとんど。講習所を卒業しただけでは法律上「奏任官待遇の司書」にはなれなかったため、講習所の卒業試験のような意味合いもあったのかもしれない。ただし検定試験自体にそれほど魅力があったかは不明。
・なお『図書館雑誌』などの2次資料では、合格者に関する記述に矛盾が多く注意が必要。

4.司書検定試験が与えた影響
・試験合格によって奏任官待遇の司書になれる可能性があるという触れ込みだったが、実際に図書館雑誌等 に合格者が奏任待遇を得た等の記事は見当たらない。
・また検定試験が行われていた時期において、講習所修了/非修了、検定合格/非合格というグループに分けて、1955年の図書館員の名簿に載っている(=15年後にも図書館で働いている)人の割合を調査した 。結果としては、外部からの合格者に比べ講習所修了者の存率は高い傾向があるが、検定の合格有無には有意差なし。
・現行の図書館法により、公立図書館司書検定試験は廃止。すべての司書資格はいったんリセット。ただし現職者には5年間の猶予期間が設けられ、この間に司書講習を受けなければ失効。山下栄は1951年に司書講習を受けて資格を維持した。なお山下は同じ年に司書講習の講師も担当している。

5.質疑
・図書館講習所のカリキュラムと、この試験内容はどの程度合っていたのか。 →調べきれていない。当時の講習所での教科書の内容との関係を調べることなどが考えられる。
・講習所修了者の就職先を見ると、いわゆる公立図書館は少ない。公立図書館司書検定と銘打っていたが、実態は異なっていたものか。→ただし当時の「公立図書館」が現在の自治体立図書館と同じ概念であるかどうかは不明。
・試験規程では、対象者をどのように想定しているのか。→規程は官報に載っているが、費用や申込み方法など手続き的なことしか書いていない。
・試験問題から「思想善導」の意図を読み解くといったことは、厳密な言説分析が必要になるため非常に難しい。制度史や教育史、あるいは合格者ひとりひとりの人生を追うといった形の方が良いのでは。 →その通りだと思う。同時代の教員採用試験などさえもまだ見ていないので、いろいろ見てきちんとした指標が作れる可能性があるかから考えたい。
・青年図書館員聯盟は、この試験制度にはどう反応したのか。→非常に多く言及し、受験を勧めている。批判的ではない。
・当時の図書館員の採用試験に、そもそもペーパーテストはあったのか?→京都府の採用では何か書かせる試験があったはず。

当日の資料は、下記URLからダウンロード可能。(クリックするとダウンロードが行われます)
http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=100056

終了後、懇親会が行われた。

2014年2月24日月曜日

第22回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第22回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年3月29日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所

発表者:岡田大輔氏
タイトル:公立図書館司書検定試験

また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年2月14日金曜日

第21回勉強会(2014年1月18日)報告



21回勉強会(2014118)報告
「先輩司書について語る!~天野敬太郎の人生~」
日時:2014118日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:今野 創祐氏
参加者数:8
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら


0.天野敬太郎の略歴
1901年、京都市に生まれる。
19143月、京都帝国大学附属図書館に就職。(附属図書館見習)
1924年、京都帝国大学司書となる。附属図書館勤務。京都帝国大学書記を兼任し、こちらは経済学部・法学部勤務。
19483月、京都大学附属図書館を退職し、関西大学図書課長となる。
19673月、関西大学を退職。翌4月、東洋大学社会学部教授に就任。
19723月、東洋大学を退職。
19928月 死去。

1.京都帝大時代
・小学校卒業と同時に京都帝大に就職。その頃、附属図書館の館長は新村出だったが、初代館長の島文次郎はよく図書館に顔を出し、天野を可愛がっていた。島は天野に切手蒐集の楽しみを教え、これは天野の趣味となった。
1925年に天野が初めて雑誌(週刊朝日)に発表した文章は「切手に現はれた人物」。
19273月、初めての編書『法政経済社会論文総覧』を刊行。京都帝大教授の宮本英雄、本庄榮治郎が序文を寄せる。この本の内容については、竹林熊彦が批判している。
19311月、初めて図書関係の雑誌に論文(?)を発表
 「維新以来本邦書目ノ書目」→『日本書誌の書誌』の原型
 これ以降、雑誌上に目録、論文を多数発表し、単行書としても多くの目録類を出版する。
 論文の内容としては、各種目録や書誌に関するエッセイ・評論が多い。
Ex) 「改題・転載・剽窃物語」(『書物展望』511))
「剽窃される恐れあるもの特に編纂物は、読者の迷惑にならぬ程度で、わざと覚えの    誤りを作つて置くに限る。剽窃者は必ず誤りのまゝ剽窃するのであるから。」
1935年、文部省主催図書館学講習会の『図書目録法』講師を担当。以降、目録関連の講義を多数行い、論文も多く執筆。
1937年、「日本図書目録法案」についての論評を発表

2.関西大学時代
19483月、関西大学図書課長に就任。
 →戦後混乱期の関西大学図書館立て直しのために招聘された
・関西大学図書館での天野の業績:新分類法による図書整理を完成、開架閲覧室を開設
※ただし、天野の著作には直接的利用者サービスについての言及は見られない。上記の「業績」は第2代関西大学図書館長を務めた森川太郎の回想から。
19514月、日本図書館研究会理事長に就任。(19536月まで)
・この時期、天野は多くの大学で図書館学の講義を担当。著書も目録の採り方に関する教科書的な内容のものが増える。一方で河上肇の著作を編集したものや、関西大学の資料に関する目録類の出版も多い。『日本古書通信』に433回寄稿。
19597月、ロンドンで開催されたIFLA主催国際目録会議予備会議に日本図書館協会代表として出席。天野はNCR1952年版の現状について報告し、参考資料としてWorking Paperを提出。
 →実際には、この会議で取り立てて新しい進歩、新規な方法などはなかった。会議終了後、天野はヨーロッパ各国(イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア)の図書館を見学して帰国。
・国会図書館の雑誌記事索引を批判(『京都図書館協会会報』751965年)

2.東洋大学時代~晩年
1967年、関西大学を退職後、東洋大学社会学部教授に就任。
 時期的に鈴木賢祐の後任か。 →図書目録法、分類法、参考資料論、図書館史を担当
・同年10月、日本図書館協会分類委員会委員長に就任(1971年まで)。NDC7版の見直しを主導。
1973年から1983年にかけて『日本書誌の書誌』を刊行。これは当初国立国会図書館が出版を計画し、天野に資料援助を依頼していたが、物別れに。前出の雑索批判の背景の一つか。

◆質疑
・天野自身の著作には私生活のことが全く出てこない。弟子の回想等からようやく判明する程度。
・天野の職歴は一般的なものだったのか?
 →当時尋常小学校卒で働くこと自体は、よくあること。しかしそこから27歳で編書を出すに至る過程は不明。
・天野のNDL雑索批判について。当時(1965年頃)の雑索は試行錯誤を重ねていた。その試行錯誤を「一貫性がない」とされた面もある。

終了後、懇親会が行われた。