2014年2月14日金曜日

第21回勉強会(2014年1月18日)報告



21回勉強会(2014118)報告
「先輩司書について語る!~天野敬太郎の人生~」
日時:2014118日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:今野 創祐氏
参加者数:8
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら


0.天野敬太郎の略歴
1901年、京都市に生まれる。
19143月、京都帝国大学附属図書館に就職。(附属図書館見習)
1924年、京都帝国大学司書となる。附属図書館勤務。京都帝国大学書記を兼任し、こちらは経済学部・法学部勤務。
19483月、京都大学附属図書館を退職し、関西大学図書課長となる。
19673月、関西大学を退職。翌4月、東洋大学社会学部教授に就任。
19723月、東洋大学を退職。
19928月 死去。

1.京都帝大時代
・小学校卒業と同時に京都帝大に就職。その頃、附属図書館の館長は新村出だったが、初代館長の島文次郎はよく図書館に顔を出し、天野を可愛がっていた。島は天野に切手蒐集の楽しみを教え、これは天野の趣味となった。
1925年に天野が初めて雑誌(週刊朝日)に発表した文章は「切手に現はれた人物」。
19273月、初めての編書『法政経済社会論文総覧』を刊行。京都帝大教授の宮本英雄、本庄榮治郎が序文を寄せる。この本の内容については、竹林熊彦が批判している。
19311月、初めて図書関係の雑誌に論文(?)を発表
 「維新以来本邦書目ノ書目」→『日本書誌の書誌』の原型
 これ以降、雑誌上に目録、論文を多数発表し、単行書としても多くの目録類を出版する。
 論文の内容としては、各種目録や書誌に関するエッセイ・評論が多い。
Ex) 「改題・転載・剽窃物語」(『書物展望』511))
「剽窃される恐れあるもの特に編纂物は、読者の迷惑にならぬ程度で、わざと覚えの    誤りを作つて置くに限る。剽窃者は必ず誤りのまゝ剽窃するのであるから。」
1935年、文部省主催図書館学講習会の『図書目録法』講師を担当。以降、目録関連の講義を多数行い、論文も多く執筆。
1937年、「日本図書目録法案」についての論評を発表

2.関西大学時代
19483月、関西大学図書課長に就任。
 →戦後混乱期の関西大学図書館立て直しのために招聘された
・関西大学図書館での天野の業績:新分類法による図書整理を完成、開架閲覧室を開設
※ただし、天野の著作には直接的利用者サービスについての言及は見られない。上記の「業績」は第2代関西大学図書館長を務めた森川太郎の回想から。
19514月、日本図書館研究会理事長に就任。(19536月まで)
・この時期、天野は多くの大学で図書館学の講義を担当。著書も目録の採り方に関する教科書的な内容のものが増える。一方で河上肇の著作を編集したものや、関西大学の資料に関する目録類の出版も多い。『日本古書通信』に433回寄稿。
19597月、ロンドンで開催されたIFLA主催国際目録会議予備会議に日本図書館協会代表として出席。天野はNCR1952年版の現状について報告し、参考資料としてWorking Paperを提出。
 →実際には、この会議で取り立てて新しい進歩、新規な方法などはなかった。会議終了後、天野はヨーロッパ各国(イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア)の図書館を見学して帰国。
・国会図書館の雑誌記事索引を批判(『京都図書館協会会報』751965年)

2.東洋大学時代~晩年
1967年、関西大学を退職後、東洋大学社会学部教授に就任。
 時期的に鈴木賢祐の後任か。 →図書目録法、分類法、参考資料論、図書館史を担当
・同年10月、日本図書館協会分類委員会委員長に就任(1971年まで)。NDC7版の見直しを主導。
1973年から1983年にかけて『日本書誌の書誌』を刊行。これは当初国立国会図書館が出版を計画し、天野に資料援助を依頼していたが、物別れに。前出の雑索批判の背景の一つか。

◆質疑
・天野自身の著作には私生活のことが全く出てこない。弟子の回想等からようやく判明する程度。
・天野の職歴は一般的なものだったのか?
 →当時尋常小学校卒で働くこと自体は、よくあること。しかしそこから27歳で編書を出すに至る過程は不明。
・天野のNDL雑索批判について。当時(1965年頃)の雑索は試行錯誤を重ねていた。その試行錯誤を「一貫性がない」とされた面もある。

終了後、懇親会が行われた。

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