2014年6月24日火曜日

第23回勉強会(2014年6月7日)報告

第23回勉強会(2014年6月7日)報告
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

0.はじめに

・伏見学校は、淡交社『京都大事典』によれば「徳川家康が伏見泰長老に設立した僧俗のための学校。慶長6(1601)年に、もと足利学校第9世校長閑室元佶(かんしつげんけつ)を招いて開校」等と説明されている。
・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。

1.伏見について

・伏見の郷土史を研究する立場から、このテーマに興味を持った。
・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。


2.円光寺と円光寺版(伏見版)について

・伏見に政権の中心があった頃に円光寺ができた。言わば政権のお膝元に作られた学術機関。
・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。


3.円光寺は学校だったか

・篭谷真智子「円光寺学校の研究」によると、「鹿苑日録」などの日記に登場する「学校」という呼称は、閑室元佶本人を指すことが多い。つまり元佶個人を指す「学校」という呼称が円光寺=近世の学校と理解され、誤った解釈がされたのではないか。一方で円光寺の日記を見ると、常設の教育機関というよりは色々な知識人が出入りするサロン的空間だったと考えられる。
(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。

4.新説と通説の関係

・脇にそれるが、京都は文化財が多いため空襲のターゲットから外された、という通説がある。吉田守男『京都に原爆を投下せよ』ではその通説を否定。きちんとした論考であり、妥当だと考える。しかしこの話を知人にした時には、フィクション小説と同列の仮説として受け止められた。
・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。


5.結び

・通説を覆すような研究者の論文が広く認知されていくことが望ましい。
・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。


質疑

・当時の大名の参勤交代の京都伏見間の交通手段は?→陸路。西日本の大名が参勤交代で江戸に向かう時にも大阪から船で伏見に着き、陸路、京を通らずに醍醐山科から大津へ抜けて東へ向かう。京都に足を踏み入れると朝廷へご機嫌伺いしなくてはならないし、ご機嫌伺いの仕方がまずければ朝廷に接近しすぎているように見えて幕府から睨まれる。
・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。

終了後、懇親会が行われた。